特別寄稿歴代広報委員長が綴る「私と支部報」

気がつけば我が人生を振り返る
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昭和40年度~45年度、昭和50年度担当
後藤晃
後藤不動産㈱代表取締役
(不動産鑑定士・元支部長)

先般、『文京区支部報』第600号記念号に思い出の一文を寄稿するよう、ご依頼を受けました。実は私自身、支部報創刊当時から関わりを持ち、小林真さん(後に支部長)に継いで2代目の広報委員長として当時から色々と書き続けてきましたので、この際、人生のひとまとめとして、過去に支部報に掲載した小文を集めて本にしようと、昨年の暮れからこつこつ拾い集めていたところです。順調にいけば、今年の前半にはでき上がり、皆様にご覧いただけるかと思います。
越し方を振り返り、思い出深いものを過去の支部報からたどってみると、昭和43年1月に八木沢清支部長(初代)の時に書いた「不動産仲介業における流通について」(134号)が出てきます。それから私の最初のアメリカ研修旅行の「アメリカの不動産事情を視察して」(昭和44年1~4月、146号~149号)が続きます。昭和47年には、「日本における不動産仲介業のありかたについて」(183号)の文章があります。そして、昭和54年、「ある不動産業者のヨーロッパ見聞録」(274号)を掲載しました。
このほか支部報には、当時の綱島正寛広報委員長の要請で軽い短文を時々寄稿して参りました。「清潔と清潔感」「駐車料金とパーキングメーター」「寿司屋の終わり」「日本におけるメートル法の矛盾」「環境破壊意識」「酒から焼酎へ」等々、思い出すととても懐かしです。
さらに日本のバブル経済の終焉について経済誌「週刊エコノミスト」に載せた論文は、支部報にも再録(平成7年、469号)するとともに、後日、イギリス研修旅行に行ったおり、ロンドンのエコノミスト社に寄贈したことも思い出されます。
以上の、支部報に書きとめた小文などをまとめて、今春には上梓するつもりですので、お暇がございましたら、ご一読賜れば幸甚に存じます。


表紙に古地図を採用、制約受けず自由に活動

昭和51年度~52年度担当
本田秀壽
本田不動産

何年頃かは忘れたが、私が広報部長を今は亡き小林支部長から引き継いだとき、何をどうしたらよいのか、全く話がないまま渡された。
当時、支部報を発行している支部は2支部しかなく、文京区支部報はガリ版刷りからタイプ印刷になったばかりであった。支部報には物件情報が掲載されていたが、原稿提出からタイプをし、それを校正後、印刷、発行していた。そのため物件が速報にならなかった。
まず手を付けたのは、提出された物件原稿を写真製版することにより、締切り3日後に支部報発行を実現することができ、速報を生かすことができるようになった。
その後、白紙の表紙に江戸時代の文京区中心地図を掲載したのをはじめとして、歴代の広報委員長の発案によって現在の広報誌ができ上がったのである。
東京都本部でも何か写真を『宅建』に掲載したいとの話があり、旧後藤不動産の並びにあった歯医者の先生が写した川面の和舟を題材にした写真の提供をお願いして掲載し、それが元になり現在の『宅建』へと発展していったのであった。
今思えば、何の制約も受けず自由に活動させてもらったことに、支部にも本部にも感謝しております。


歴代広報委員長の努力を大いに称えたい

昭和61年度~62年度担当
原晏孝
元・保商事株式会社代表取締役
(前支部長)

私が広報委員長をやっていたのは、20年ほど前だったと思いますが、その当時は支部報は毎月発行しておりました。その上、会員間の物件情報の役目があり、かなり毎月、追われている感じでした。
当時の支部は、毎回支部長選が行われ、現職の支部長が敗れるのがほとんどだったので、理事会も、その反映でギスギスしたもので、議事録をとるのも苦労したものです。
理事会にレコーダーを持ち込んで録音して、後でそれを文章に起こしたわけです。これにかなり苦労させられました。なぜならば、支部報を発行して会員の皆様の手許に届くやいなや、理事の諸兄からクレームの電話が殺到し、なかには直接来社してくる人もいて、「俺はこんなことを発言した覚えはない」と言って、怒鳴り込んで来る理事もいて、これは執行部、反執行部、両陣営より強烈なパンチがあり、この処理に広報の仕事のエネルギーを使い果たすようなことで、苦い思い出として記憶に残っています。
無理もないと思いますが、この頃の支部報の議事録は、誰が発言したとか、誰がどういう質問をしたとか、また、誰がどういう答えをだしているのか、明確に活字にしていましたから。私が広報委員長の在任期間は、2期4年くらいだったと思いますが、その間、支部長選挙が2回、常に現職の支部長が敗れて、新しい支部長がでるというエネルギーあふれる元気な支部でした。当時は毎月、各班長さんが会員に支部報を配布しておりましたから、班長さんは大変だったと思います。
その他に班長さんは集金、委任状、地区会とご苦労をおかけしたと思っております。現在は大分改革されて、班長さんの役も軽くなったのではないでしょうか。当時の支部報は文章ばかりで無味乾燥、今の支部報に比べれば写真なんかもほとんどないし、面白くないし、一部の関係者だけが見るという状態だったと思います。
ところが今の支部報は写真も多く、興味深い記事も多く、部外者でもパラパラと中を見たいような感じで、歴代広報委員長の努力を大いに称えたいと思います。特に名広報委員長、綱島さんの頑張りには、頭が下がる思いです。
今後も文京区支部報が永遠に続くよう祈念して筆を置きます。


この600号がいつか思いで号になるように

平成9年度~12年度担当
小林修
小林修不動産

過去おおぜいの広報関係の御先輩によって築かれた広報誌。ついに今回で600回記念号の発刊の偉業を達成されました。おめでとうございます。と、ここで思い出す。隣室の物置から「文京区支部報1998年10月号・第500号」を取り出す。目次には本部の広報委員長・岩出達郎氏ほか多数の寄稿がずらり。─〈懐かしのメロディ〉なるわたしの一文の中段に昭和46年支部報第170号からの記事を引用すると「〈昭和45年12月9日、動坂菊文にて青年部忘年会が盛大且つ賑やかに挙行。老いも若きも主従の関係もなく、運営委員の野口氏のギター伴奏に合わせ声高らかに唄い雑談に花を咲かせる光景が続く〉時代を感じさせる記述で当時の背景からも懐かしのメロディが聴こえてくる。この500号もいつかは思いで号になるのでしょうか─」と、その時私は書いた。これからも会員の皆様のご支援を得て文京区支部報のますますのご発展を期待してやまない。


先人の思いに心を寄せ、発行継続を切望

平成13年度~21年度担当
綱島正寛
株式会社ツナシマ代表取締役

私が文京区支部広報副委員長として支部報と関わり始めて15年ほどになります。その間、沖田支部長、寺村支部長、原支部長、奈良部支部長のもと、支部報の発行に携りました。
平成18年、文京区支部創立40周年記念号の編集を通し文京区支部の変遷や支部運営を支えた数多くの先人の存在を知ることができました。宅地建物取引業が社会的信用を得るために発足した文政連の経緯を文京区支部の重鎮・藤田精一郎氏から拝聴出来たことや、中小不動産業者が大手不動産業者からいかに身を守るかを目的に業協会が発足したかを知ったのも文京区支部報の編集作業に参画したからにほかなりません。
時代が変わり支部報発行の有り方も大きく変わりました。かつては、編集作業、原稿依頼、原稿集め、割付、校正から配送に至るまで、すべてが手作業でした。しかし、今や多くの作業はIT化され、インターネット上で処理することが可能な時代になりました。多くの若手メンバーが支部報作りに気軽に参画出来る時代を迎えて、うれしく思っております。ただ難しいことは何でもパソコンで処理することが可能だと錯覚することです。いつの時代も最終的には人と人のコミュニケーションが決めるものだと教えを受けたのも支部報を通じて学んだことです。
支部報の編集がご縁で、かつての広報委員長井上重臣さんと懇意にさせて戴きました。支部報発行30日前には必ずと言ってよいほど支部報掲載のエッセイが届きました。原稿の締め切りには律儀な井上重臣さんが、およそパソコンとは無縁な環境から個性的で自由奔放なエッセイが届きました。亡くなられてから、この自由人井上重臣さんの生き様を支部報編集者として無駄には出来ないと考えました。当事の広報委員会で協議し、文京区支部会員の有志からの支援金を募り遺稿集を無事に発刊できたことは、今思えば支部報にも増刊号があるのだという記憶を残したいものだと思います。
東京都宅地建物取引業協会も公益法人化に衣替えいたしました。誰のために、何のために、何を成すのかが全く理解出来ないまま今日を迎えております。本来の目的が組合員相互に社会的地位向上や、大手不動産業者からの防衛が目的の団体です。いつの間にか公益のために資する団体でなければいけないことになりました。広報誌が業協会の主旨に沿わない、予算が過剰であるなどの理由で消滅せざるを得ないなどという声もチラホラ聞こえて来ます。
これから支部を担う若い方々が先人の思いに心を寄せ、文京区支部の正しい方向、偏らない文京区支部報の発行を更に継続されんことを切望しております。


「伝える」に加えて伝統を「守る」がテーマ

平成22年度~現在担当
三浦孝志
株式会社タープ不動産情報代表取締役

私が文京支部広報委員会と関わりを始めた時は、故井上重臣(元広報委員長)氏が支部報に掲載されたエッセイを増刊号として発行しようと、広報委員が編集にあたっていた真っ只中でした。故井上重臣氏のエッセイは、読む人を夢中にさせるもので、当時は編集を忘れて読み入った記憶があります。そして気が付けば綱島前広報委員長のもと、副委員長4年、委員長4年と合計約8年間にわたり関わらせていただきました。
広報委員の活動を振り返り、インタビューや座談会を通じて多くの方々とお会いすることができ、同じ業界で働く方々の後継者問題や悩みなど沢山の本音が聞けたこと、友人も増えたことは私にとって大いにプラスになりました。
支部報は取材を通じたコミュニケーションの上に成り立っており、手作業で制作されていた時代から、多くの広報委員の方々の手によって伝統が生まれました。会報誌としての役割である「伝える」に加えて伝統を「守る」というテーマも現在の広報委員会(情報流通委員会)にはあると考えます。
現在、支部が直面している問題のひとつがコストの削減です。支部そのものを存続させるためには全体の収支を圧縮することは重要です。しかし、コスト削減に集中し過ぎて、金銭では計れない伝統は削減することなく、残していきたいと考えます。