支部の歴史

 かつて、まだ文京区が小石川区と本郷区であった昭和初期の不動産業は「紹介営業取締規制」によって「2000円以上、不動産ヲ有シ就業上適当ト認メラルル者」とされていました。その後、昭和12年に一度は除外されましたが、昭和16年には再び許可営業の取り締まり対象になりました。当時の2000円という金額はたいへん大きな金額で、1000円あれば立派な家が買えたそうです。
都合がつけられない人などは知人や親戚などから名義借りを人などもなどもいたそうです。
富坂管内で営業されていた方は14~5名、本富士管内では10名程度でした。
当時、厳しい取締の対象になっていた理由には、今では考えられないことですが、口入れ稼業から派生した人身周旋業に包含された業種で、差配(土地管理人)、古物商など、他業種との兼業もみられたとのことです。そのため半数の業者は許可業者の従業員となって仕事をしたものでした。
第二次世界大戦中の苦労は言うに及びません。
戦後、昭和22年に小石川区と本郷区が合併し文京区となり、またマッカーサーの指令により「紹介取締規則」は廃止されました。
東京地図
当時小石川地区には「山の手助成協力会」の名称で業者会がありましたが、本郷地区では未組織でした。昭和27年に「宅地建物取引業法」が制定され、業者登録が実施されます。東京の窓口は皇居前(現在のパレスホテル付近)で、木造の建物で受け付け事務が行われていました。
文京区の業者界では昭和28年に小石川、本郷が合体し、大塚「茗渓会館」で「文京宅地建物取引業組合」の名称で任意団体が誕生しました。これが源流となり現在に至っています。
その後関係官庁の行政指導により、中小企業等協同組合設立申請が都内各区から申請されるようになり、昭和31年に有志数名が発起人になり協同組合を発足させることになりました。
組合員は87名を数え、昭和46年の解散まで組合員の出資金を元に仲介や建売関係の業務を行っていました。 昭和32年に業法が大幅に改正され、営業保証金の供託制度と取引員試験とが実現し、組合では供託金の積立、受験のための講習会で多忙の時期を迎えることになります。
取引員試験では、従来の営業実績を考慮し、第1回目は選考(無試験)の組合員も多く、一括申請した方たちもいます。また一般試験でも組合で一括申請して第1回目の試験では高率の合格者を出しました。その後は年1回の取引員の試験のため講習会を開催し、多数の組合員が合格しました。
昭和39年に「不動産の鑑定評価に関する法律」が制定され、これにより鑑定評価業務はハイレベルな国家試験に合格した者が行う業務になりました。鑑定士試験は弁護士、公認会計士の試験と同水準を目指し、鑑定評価理論、実務知識、広範な関連課目が対象になりました。
昭和40年に上層団体の「東京宅地建物取引業組合連合会」は「取引員会」と合体し「東京宅地建物取引業協会」を設立し、「業協会文京区支部」が誕生しました。
文京区宅建協同組合は昭和39年頃以降は、しばらく休眠状態を続けていましたが、業協会組織も強固となり、文京区業者として団体の一本化の姿が正しいと判断し、昭和46年に解散し、清算事務に移行しまして現在に至っています。
(支部名鑑より抜粋)
文京区支部50年の歩み

文京区支部50年のあゆみ(1956年~2015年)